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日本へら研の歴史 | ||
黎明期 「明治時代に河内鮒の養殖が始まり、大正期には関西においてへら鮒の釣り堀が開業され、関東へは大正7〜8年頃、群馬県館林の城沼に20貫の放流が行われた」と云われる。昭和3年、琵琶湖産のへら鮒を霞ヶ浦へ放流、同5年 東京蒲田の鹿島田養魚場で釣り堀経営に着手。 昭和6年10月22日、蒲田釣楽園主 綿貫酉之助が4百貫のへら鮒を関西より購入。9年 移転して大田区に小池釣堀を開業。名人上手が輩出する。 昭和4年、山梨県の水産技師沢田進、富士五湖に各4千尾を放流。かくしてへら鮒は水郷および山上湖に繁殖を始める。18年3月、土肥伸が関西から横利根川の内川へ移住。多くの釣人を同家へ迎え、関東におけるへら鮒釣りの発展に貢献する。22年7月5日、釣友同和会創立。日研の母体となる。 特記事項 昭和6年冬、釣楽園にて鈴木魚心20尾の初釣果。14年、小合溜にて渡辺利之助が団子釣りを行う。15年、小川魚遊、小池釣堀へ通い始める。16年4月10日、関沢潤一郎が横利根川西代西岸にて初釣果。米地南嶺、石神井の釣堀金木園の開園からの顧客となる。吸い込み釣りの名手小林隆夫も小池で技を磨く。 戦後間もなく、土肥伸がへら鮒釣り普及のための指導者グループの会を作ることを発案。叶九隻が同意し、吉田進の骨折りで小林隆夫、安食梅吉、加納幸蔵も腰を上げるが実現せず。昭和23年、へら鮒専門の釣り会がぽつぽつ生まれ、へら鮒釣り人気が次第に高まる。24年、精進湖第1回フナ釣り大会が鈴木魚心の肝いりで開催される。参加者150名。 |
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昭和25年 6月16日、新橋の烏森神社において日本へら鮒釣研究会発会式。名称は米地南嶺発案、バッジ図案は渡辺利之助、会則は山田釣閑、会旗調達は伊勢丹の鬼沢録太郎(魚仙)。 会長に後藤福次郎、副会長が宗村純、餌取章友。発会参集者は土肥伸、関沢潤一郎、小林隆夫、宗村純、米地南嶺、戸田粂雄、小林健二郎、餌取章友、山口幸司郎、渡辺利之助、平井魚葉、山田釣閑、増田逸魚、鬼沢録太郎、三村栄一、堀切、竹野紫泡、植木義夫、岡本、西谷権之助。釣友同和会ヘラ部が主体であった。 発足時の支部は浅草、川口、東葛、二水会、船橋。会員数97名。 特記事項 10月26日、千代田湖試釣に戸田粂雄、小林健二郎、宗村純、増田逸魚、渡辺利之助、鈴木魚心が参加。11月19日、全関東ヘラ鮒釣団体対抗競技大会開催。バナナにおいて古河チーム優勝、佐原町役場階上にて表彰式。12月10日、小池釣堀にて日研大会、参加200名。 新橋発の水郷釣バスの運行が始まる。 |
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昭和26年 中央区木挽街2-13 吉田進方に連絡所を置く(会費30円)。10人制による支部対抗団体トーナメント始まる。競技規定の不備により、浅草および東横の2支部が優勝。優勝杯を月賦で購入。 特記事項 5月13日、甲府の丸山貯水池(千代田湖)において日研主催の大会を開催。東京から31名が参加、地元の釣人も加わり賑わう。5月17日、三名川貯水池(三名湖)へ渡辺利之助試釣。 釣行には上野発6時10分の列車が愛用される。東レの銀鱗アミランテグスが使われる。 |
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昭和27年 3月15日、日本へら鮒釣研究会会則を制定実施。本部事務所を荒川区三河町4-3101 山口幸司郎方に置く。青空一竿、池上、浦和、松戸の4支部が加わる。計17支部、会員数256名。 (註)創立以来の支部数を足しても17にならないのは…「日研三十年のあゆみ」が作られた昭和55年当時の存在支部を「加入支部としている」ため。小林健二郎は「20支部の入会を見る一方で13支部の退会という現象もあり」書き残しており、揺籃期の苦労が偲ばれる。団体トーナメント優勝は浅草支部。 特記事項 横利根川拡張工事が始まり、内川、船大工、三左エ門、マノスケ、乱塔場の各江湖が埋め立てられ水郷は変貌。4月3日、増田逸魚、ボラ釣りが主体の佐屋川(名古屋)においてサツマイモを餌にへら鮒を尺上混じりで6キロの初釣り。釣り場として牛久沼、佐原向地、古河、安食、手賀が人気を集める。 |
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昭和28年 宗村純が二代目会長に就任。温厚な人柄で会員一同に厚く信頼される。しかし、釣界全体として見れば、日研自体が揺籃期の域を出ず、あらゆる点で新味工夫が必要であった。団体トーナメント優勝は森清支部。 特記事項 11月3日、佐屋川において浪花釣友会、中部釣魚連盟と日研の対抗釣会が行われ勝利する。参加者は米地南嶺、宗村純、小林健二郎、土肥伸、叶九隻、青山文雄、渡辺利之助、本田亀六、市川、荒木(個人優勝)ほか計18名。関東と関西の釣り習慣の違いに双方驚く。 |
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昭和29年 望月正行が三代目会長に就任。副会長に米地南嶺、小林健二郎、竹野紫泡、顧問に土肥伸、叶九隻、鈴木魚心。支部会員は川口支部の31名が最大、森清支部の11名が最小で平均20名台。団体トーナメント優勝は浅草支部。 特記事項 この年までグル川、バナナ、上の島新川、与助川、精進湖、手賀、六軒川、利根運河の水堰橋等において対抗戦が行われる。また、平山江湖、多田島江湖、横利根大曲観音前、長野県の松原湖が人気を集める。松原湖の地元にへら鮒会も創設される。 |
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昭和30年 米地南嶺が四代目会長に就任。創立7周年を祝い白バッジ制定。日本へら研競技規則を制定。支部対抗戦も7人制から5人制へ改め、1支部から2〜3チームの参加を可能とする。トーナメント優勝は東葛支部。 特記事項 4月1日、利根運河水堰橋において銀座で全盛の山村聰の釣具店「ポイント」に集まるメンバーVS浅草へら鮒会の対抗戦が行われ、銀座は全員赤帽を、それなら浅草は対抗上「黄色」にしようと…釣り場に真新しい赤と黄色の帽子が並ぶ。此れが釣界の制帽の始まりとなった。 |
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昭和31年 植木義夫が五代目会長に就任。精進湖にて魚心杯争奪個人釣大会を開催、参加90名。佐原の土肥杯、松原湖の叶杯と共に人気を集める。トーナメント優勝は浅草C組。 |
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昭和32年 個人大会の対象魚が「5寸以上」となる。11月10日、佐原向地にて創立10周年記念釣大会を開催。同月、大阪の芦原池にて浪花釣友回と懇親会を開催。この頃よりへら鞄が登場する。トーナメント優勝は城北A組。 特記事項 佐原向地にて電気による密漁盛ん。12月には7歳の女子が巻き添えで事故死。関沢潤一郎と地元の人々により水郷釣場愛護促進会が発足、取り締まりに協力する。群馬県の丹生湖が釣れ出す。 |
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昭和33年 会長から理事長制へ変わる、初代理事長に米地南嶺が就任。機構改革の結果、企画、渉外、運営、研究、文書、経理、審判、道徳の各部誕生。支部対抗が5人から10人制となる。トーナメント優勝は青空一竿支部。 特記事項 国鉄が佐原や精進へ「銀鱗号」を運行。新潟県の鳥屋野潟、高田城の濠、中頚城郡内の溜池にへら鮒が繁殖。人気を集める。地方にも釣会増加。 |
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昭和34年 4月5日、土肥伸逝去。4月12日、初の日研葬が行われる。7月7日、新緑個人釣大会を精進湖にて開催。土肥伸顧問碑をレイクハウス前に建立。トーナメント優勝は松戸支部。 特記事項 東武鉄道主催・日研後援の釣大会を五十里湖にて開催。東京鉄道管理局主催・日研後援の釣大会を精進湖にて開催。 |
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昭和35年 小林健二郎、二代目理事長に就任。愛魚運動として「アゴ鈎糾弾」に加え、稚魚放流の声が高まる。トーナメント優勝は巽支部。 特記事項 手賀沼養魚場にて孵化育成に成功。関東産の河内鮒が誕生する。羽田旭匠(孤舟)が大阪から上京。関東の釣り人と交流する。相模湖で尺2〜3寸が釣れる。へら餌としてマッシュポテトが定着し始める。 |
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昭和36年 手賀沼や牛久沼のへら鮒が高値で売買され問題となる。密漁対策、魚の持出制限、再放流の運動が盛んになる。6月、川崎さいか屋の「報知つり展」を後援。トーナメント優勝は池袋支部。 特記事項 横利根川好調。舟宿と日研の間で出舟時間、水棹の長さ、釣り場清掃、舟の乗り捨て防止について話し合いを行い、各支部へ徹底する。銀座支部、浅草支部がメートル法を採用。 |
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昭和37年 堂前の品志川が日研と都釣連の共同専有釣場となる。4月8日、大阪から同川へ河内鮒を直送し大会を開催。4月13日、神田「もとみや」にて初の支部長会議を開催。山中湖平野ワンドが人気を集める。トーナメント優勝は浦和支部。 特記事項 目黒支部に少年部が創設される。北海道大沼にて巨べらが釣れる。間瀬湖に初放流。 |
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昭和38年 創立15周年記念大会を開催。日研動員の大型バスが年間80台に達する。5月、埼玉県水産試験場で孵化生育された稚魚を、木村国夫養魚放流部長の下、幸手市高須賀沼脇の養魚池で育てる事業を開始。初の地方支部(新潟)が入会。トーナメント優勝は草加支部。 特記事項 養魚放流部が設置される。叶九隻、総会にて密漁糾弾演説を行う。 |
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昭和39年 創立15周年記念式典を上野精養軒にて挙行。仙台、静岡に支部誕生。7月、美鈴湖にて松本へら研主催の大会が開催される。東北、上信越、北海道、東海の釣り場が注目を集め、普及目覚ましい。トーナメント優勝は墨田支部。 特記事項 西湖、精進湖の入漁料について漁協と話し合いが行われる。 |
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昭和40年 10月、親子釣大会を試験的に開催。東北線、常磐線、城南の各ブロックが確立される。第5回となった報知つり展をはじめ、東武百貨店、丸物百貨店の釣り展を後援。トーナメント優勝は浅草支部。 特記事項 ふまつげん本舗が「フマツゲン」を発売。津久井湖完成。 |
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昭和41年 山口幸司郎、三代目理事長に就任。山形県が伏熊沼にて、長野県が美鈴湖にて初の地方大会を開催。5月、日研の長老会である「寿会」発会。戸田粂雄が会長に就任。トーナメント優勝は銀座支部。 特記事項 西湖の足和田村が台風26号による災禍に見舞われる。北浦で巨べらブーム起こる。地方部の大会決勝戦が横利根川で行われ、仙台支部優勝。雑誌「へら鮒」が創刊される。 |
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昭和42年 4月30日、精進湖畔にて「はねうきの碑」除幕式。5月15日、目黒支部が清水公園池にて子供釣大会を開催。へら鮒センター各地に誕生。トーナメント優勝は紫水会支部。 特記事項 相模湖にて53.5cmが記録される。金子四郎製作の映画「へら鮒のすべて」完成。地方部(北越、北部、中部、東海ブロック)による第1回地方大会を開催。11月26日〜12月17日、大阪府淡水魚試験場より2歳魚を運び、西湖、精進湖、小合溜、新利根川、横利根川、円良田湖へ4.1トンを放流。現在に至るまで「放流事業」は日研の大きな柱である。 |
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昭和43年 植木義夫、四代目理事長に就任。4月28日、物故先輩の合同慰霊祭を行う。トーナメント優勝は浦波支部。 特記事項 東海、北越、東北でも放流が進む。 |
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昭和44年 創立20周年記念釣大会を春秋の2回開催。精進湖の釣況の落ち込みが顕著となる。「己れの釣り場は己れの手で」と放流事業の重要性が更に高まる。トーナメント優勝は浦波支部。 特記事項 美濃部東京都知事の「公営ギャンブル全廃声明」により、買い取り制だった釣り堀が質的転換を迫られる。 |
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昭和45年 小川魚遊、五代目理事長に就任。横利根川にて漁業権の設定問題が起こる。トーナメント優勝は亀有支部。 特記事項 釣り堀の買い取り制度が全廃される。河口湖のへら鮒がキロドネラにより大量斃死。深川支部が成魚1トン、稚魚0.5トンを豊英湖に放流。 |
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昭和46年 8月6日、親子釣大会をちびっ子へら鮒釣大会と改め、日研推薦釣堀協和会と共催にて川越、水元、関東、桃源境、川崎、柏、土浦、吉川、米沢の各へら鮒センターにて開催。以後行事として定着する。日研ニュース発刊。月間機関誌となる。トーナメント優勝は銀座支部。 特記事項 宮城県釜房ダムに日研が2トンを初放流。5月、利根川河口堰完成。水体系が変化する。 |
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昭和47年 全国へら鮒放流協議会発足、初代会長は小林健二郎。放流バッジ千円による協賛運動が始まる。トーナメント優勝は北斗支部。 特記事項 「月刊へら」創刊。三島湖に5トン放流。 |
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昭和48年 精進湖の復活を目指し、アンカー禁止、動力舟釣り廃止、出舟時間設定、イケス周りの釣り禁止を現地と取り決める。また、舟代から2百円を次年度放流資金へ充当のこととする。三島湖も放流の甲斐あって空前の人気。一方でへら鮒に「穴あき病」蔓延。トーナメント優勝は紫水会支部。 特記事項 三島湖に11トンの大量放流。津軽富士見湖への釣行始まる。 |
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昭和49年 小林健二郎六代目理事長として再登板。3月、西湖へ12トンの大量放流。小林理事長から美濃部都知事へ「奥多摩湖の舟釣り解禁」を請願するも…断られる。トーナメント優勝は東和支部。 特記事項 東横水郷が川崎市営等々力緑地公園へ移管され、等々力FCとなる。 |
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昭和50年 11月9日、上野精養軒にて創立25周年記念式典挙行。全へら鮒放協を全日本へら鮒放流協議会に改称。トーナメント優勝は結城支部。 特記事項 内の倉ダム、水沼ダムへ放流。 |
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昭和51年 全放協の第5期放流は30.16トン。5年間総計は127.91トンとなる。地方においても放流体制が整い、静岡へら連も西大谷ダム、七曲池、水窪ダムへ放流。トーナメント優勝は北斗支部。 特記事項 草木ダムが完成し放流。カーボンロッドが脚光を浴びる。 |
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昭和52年 山中湖、西湖、精進湖快釣。連日、10キロ20キロのニュースが伝えられる。「釣り人課(仮称)を水産庁に」の署名運動始まる。トーナメント優勝は東和支部。 特記事項 全放協、日研、自主放流合わせて65.11トン。 |
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昭和53年 佐藤紫舟、七代目理事長に就任。7月19日、豊英湖が営業開始。トーナメント優勝は浅草支部。 特記事項 地方部が南部・北部の東北地方部、北越(新潟、北陸)、中部(中部東海、中京)、特別(九州、特別)の構成となる。 |
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昭和54年 7月22日、野田奈川にてクリーン作戦を実施。トーナメント優勝は亀有支部。 特記事項 日研、全放協、自主放流の総計107.27トン。遂に100トンの大台に乗る。 |
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昭和55年 11月16日、創立30周年記念式典を帝国ホテルにて挙行。記念誌「三十年のあゆみ」を発行。トーナメント優勝は青空一竿支部。 特記事項 寿会会員150名に達する。 |
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続く | ||
日研の人々 | ||
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続く | ||
「日研創立三十週年記念 三十年のあゆみ」「日研創立40周年記念 40周年の軌跡」「増田逸魚著 へら鮒三国志」「浅草へら鮒会 四十五年の歩み」「へら鮒掲載 へら鮒今昔物語 平井魚葉(日研特別会員、日研創立時参集メンバーの唯一の生存者)」などを基に日研の歴史と人々について綴っています。資料や写真を提供くださった皆さまに心より感謝申し上げます。なお、記述には正確を期していますが…誤り等ありましたら、遠慮なく広報部・吉本までお知らせください。 |